誰の物語[1]
読んでくれている皆様、こんばんは。
今回は2回目の記事です。このあたりで「まとも?」な記事を書いておこうかな、ということで、『例え話』をベースにして全3回に分けて書いていこうと思います。3回目の下に、(あくまでもご参考までに)私がそれに対してどう考えているかも書きますので、皆さんなりの答えを考えてみてくださいね。
もしあなたが『大切な誰か』から相談をされたり、落ち込んでいるその人を見たら、どうしたいと思うでしょう? きっと『~なって欲しい』『聞いてあげたい』と思ったりしているのではないでしょうか?
相手の為に、と助言やアドバイスをすることもあるでしょう。それを相手が聞き入れた結果、聞き入れなかった結果、良くないことが起こったとき、助言やアドバイスをした側の責任感や共感性が強かったり高かったりすると「自分のせいでそうなった」とか「自分が言っても何も変わらない」って思うことが間々あります。これ自体は悪いことではないと思います。(思う自由は誰にでも平等にありますから)
そこで考えてみて欲しいのですが、相手のことを想い測って、助言やアドバイスを『したとき』と、結果が『あらわれたとき』の相手の反応で、思考の立ち位置(物語の書き手と登場人物)が入れ替ってることってありませんか?
*これまでにあった出来事を思い浮かべてみてくださいね。
*人が行動するときの最終的な判断は、その人の意思によるもの。言い換えるなら、コーヒーを飲むのも、紅茶を飲むのもその人自身の選択で、その後「やっぱり違う方にしておけばよかった」、または「これにして正解だった」と思うのも、その自身の選択に依存するものですよね。それを踏まえて、過去の出来事をもう一度振り返ってみてください。 先ほど思い浮かべた過去とどんな違いを感じましたか?
・・ということで、今回はここまでです。
思ったこと感じたこと、できれば書き留めておいてくださいね。 コメント部分に書き込んでいただければ
もちろん大歓迎です。
次回に続く
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